今年という年は、どうも機械と時間に祟られている。
管理機は壊れる。イベントは息継ぎする暇もないほど押し寄せてくる。
気がつけば畑仕事は予定表の後ろへ後ろへと押しやられ、写真撮影など遠い昔の出来事になってしまった。
もっとも、「撮影を忘却の彼方に追いやった」などと言えば聞こえはいい。
実際のところは、毎日を「時間との闘い」と決めつけてしまったのが敗因だったのかもしれない。
時間と闘うなどと言うが、相手は無敵である。
こちらが鍬を振るおうが、草を刈ろうが、飯を食おうが、時間は同じ顔をして流れていく。気づけば季節だけが先に走り去っていた。
昨日になってようやく、来年のさとほろ(苺)用の畝立てを終えた。
やっとのことである。
娘にも手伝ってもらった。親子で汗を流しながらの作業だったが、畝が一本、また一本と並んでいく光景は、野良仕事にしかない種類の達成感を与えてくれる。
ところが、こちらが一つ片づければ、畑は二つ仕事を増やしてくる。
きゅうりなど、その典型だった。
ネットを張る暇がないまま日が過ぎ、気づけば立派な地這いきゅうりになっている。本人は何も悪くない。
支柱もネットもないのだから、大地へ伏して生きるしかないのである。
もう少しだけ辛抱してもらおう。来週こそはしっかりネットを張るつもりだ。
蔓で伸びる豆類も同じだ。
元気に育ってはいるが、こちらも支柱なし。蔓は蔓で困惑しているだろう。
「私は誰に巻き付けばよいのか」
そう言いたげに右へ曲がり、左へ曲がり、迷い続けた末に隣の豆へ抱きついてしまう。
畑の一角では植物たちによる不慣れな社交ダンスが繰り広げられているような有様である。
しかし最大の事件は大豆だった。
三十メートルほどの畝に播いた種が全滅したのである。
綺麗さっぱりである。
カラスなら圃場へ入り込めない。鹿なら電気柵がある。そうなると容疑者はだいぶ絞られる。
おそらくアライグマ一族であろう。
そこで作戦を変えた。
家で育苗し、苗になった大豆を定植した。その脇には試しに直播きもしておく。
いわば囮と本命を同時に置いたわけだ。
一週間ほど、気が気ではなかったが、今回は無事だった。
苗で植えたせいで、近くに播いてあった豆に気づかなかったのかどうか? 理由はわからない。
だが、敵の手口を知れば知るほど、やはり犯人はアライグマではないかという気がする。
あの連中の手は妙に器用だ。
人間の子どもの手に似ている。
スイカなど見ればわかる。直径12センチほどの穴をぽっかり開け、そこから手を突っ込んで中身だけを食べる。
収穫してみると、真ん中だけが見事に空洞になっている。
まるで果実の魂だけ抜き取ったような食い方だ。
大豆だって同じだったのだろう。
一粒一粒を器用な指で拾い上げ、律儀なまでに食べ尽くしたに違いない。
だが、勝負はまだ終わっていない。
畑という場所は、小さな戦争が延々と続く最前線である。
今年は一度やられた。
だが今度はこちらが一枚上手だった。
たまには人間だって勝つのである。





