畑へ着くと、二匹のトンボがゆったりと飛んでいた。だが、まだ秋の匂いはない。気温は二十三度。つい昨日までの三十度が悪い冗談だったように、空気は軽く、肌にやさしい。北海道の夏は、このくらいがちょうどいい。
さっそく草刈り機を回す。水を飲まずとも一時間近くは動き続けられる。流れる汗もまだ気持ちがいい。三十度を超えると、そうはいかない。全身が着衣水泳のあとのように水浸しになり、服は皮膚へべったりと貼りつき、着替えさえ面倒な仕事になる。
草を片づけると、今度は収穫と管理作業だ。一週間ぶりなので、案の定、お化けキュウリが何本か育っていた。野菜というものは、人間の都合など待ってはくれない。
トマトを摘んでいるときだった。
山の上、草木の深いところから、ザザザザッと斜面を切り裂く音がした。次の瞬間、何かが一直線に駆け下り、五メートルほど先まで草木が波を打つように揺れた。
電気柵はある。だが、柵など信用しすぎてはいけない。
まずスマホを取り出し、音量を最大にして音楽を流す。夏だからサザンにした。熊なら、これは命のやり取りになる。目だけは揺れる草むらから離さず、足だけをじわじわと後ろへ運び、コンテナまで退いた。
追ってくる気配はない。
胸を撫で下ろした。しかし熊ではないだろうと思う一方で、「もしも」は消えない。一番刃の立つ鍬を手に取り、またトマトの畝へ戻る。
歩きながら、頭の中では何度も鍬を振り下ろしていた。上段に構え、一撃で叩き込む。そんな馬鹿げたシミュレーションを、戻る道すがら誰もいない畑で何度も繰り返す。相手が熊なら、おそらく勝負にもならない。それでも人間というものは、何もしないより、何かできると思い込んだほうが少しだけ歩ける生き物らしい。
現場へ戻ると、もう気配は跡形もなかった。
向こうもまた、人間に肝を潰したのだろう。こちらが逃げた隙を見て、一目散に山へ帰ったに違いない。
ほんの数十秒の出来事だった。それだけで、背中を流れる汗の質は、さっきまでの気持ちのいい汗とはまるで別物になっていた。








